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ついに「隣の家の少女」を超える劇薬を読む

(このエントリには残酷な描写がありますよ)

 怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ…負の感情を与える小説を探してきた。特に読後感がサイアクの気分を味わえるような、そういう小説を探してきた。読むだけで嫌悪感、嘔吐感、恐怖感を掻き立てる、イヤ~な気分にさせる小説。「感動した!」「お涙ちょうだい」なんて糞喰らえ。読んだ記憶ごと抹消したくなる"劇薬"をよこせ

 …という企画「劇薬小説を探せ!」[参照]で、皆さまのオススメを片端から読んできた。一口に"劇薬"といってもカゼ薬からシアン化ナトリウムまでいろいろ。

「隣の家の少女」という劇薬

 毒素の高いものランキングすると、こうなる こうなっていた。
隣の家の少女
  1.隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
  2.獣舎のスキャット(皆川博子)
  3.暗い森の少女(ジョン・ソール)
  4.ぼくはお城の王様だ(スーザン・ヒル)
  5.砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)
  6.蝿の王(ウィリアム・ゴールディング)

 2位以下の入れ替わりはあったが、不動の1位「隣の家の少女」を超える奴はなかろうとタカくくっていた。

 「隣の家の少女」は本当に酷い。読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験レベルまで沁み渡った。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。

 陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。

 見ることにより取り返しのつかない自分になってしまう。文字通り「もうあの日に戻れない」。

 しかし既に読んで(見て)しまった。それどころか、出会いそのものを忌むべき記憶として留めておかなければならない。わたしたちは、読むことでしか物語を追えない。作者はそれを承知の上で、読むことを強要し、読む行為により取り返しのつかない体験を味わわせる←ここが毒であり、「最悪の読後感」である所以。

スプラッタ小説

 さて。

 そんなに酷い思いをしたならば、こいつを上回る毒はありえない。残虐シーンが好きなら、そいつ売りの「読むスプラッタ」なら「血の本」「殺人鬼」などスゴいものが沢山ある。例えば…
殺人鬼2

  • 看護婦の肛門に消火器のノズルを突っ込んでブシューッと破裂させたり、力まかせに木刀を口に押し込み、そのまま肛門までブチブチと貫通させる(殺人鬼II)
  • 口→喉→胃→腸の奥に「手」を突っ込んで、内臓を握りだす…そして、あたかも靴下を裏返しに脱がすように一気に引きずり出す(血の本:屍衣の告白)

(どちらも「生きたまま」がポイント)だいたいエログロ好きなら映画の方が格段に良いって。「ネクロマンティック」か「八仙飯店之人肉饅頭」あたりを観てな。どちらも極上エログロだから。ただし、よ い 子 は ゼ ッ タ イ に 観 て は い け ま せ ん !

 どんなに酷くても、終わったら忘れることができる。初恋の少女の肉体を使った地獄絵図を「見た」という経験も、どろどろに腐敗した恋人にディルドをつけて死姦するシーンも、終わったら、おしまい。時間はかかるが、痛みは薄れ、記憶は風化する。荒唐無稽であればあるほど、「思い出」化することは容易だ。

「児童性愛者」という劇薬

 ところが、「隣の家の少女」を上回る劇薬に中った。「児童性愛者」だ。「隣の家…」は読んでる途中で猛毒に気づくが、本書は読みきった後にジワジワとクる。ニュースで"そういう事件"に出くわすと、たとえようもない絶望感に天を仰ぎたくなる。時間が経てば経つほど毒に蝕まれる。読むことが悪夢の始まりであり、呪いとしかいいようがない。

 エログロは無し。残虐シーンも無し。「読むスプラッタ」は楽しく読めたのに、本書は気分が悪くなった。特に、ある写真の真相が暴かれる場面は、予想どおりの展開であるにもかかわらず、読みながら嘔吐…で、ラストは絶望感でいっぱいに。

 「小さな子どもと仲良くなること」を生涯の目標にしている男たちがいる。柔らかくハリがある小さな体を自由にしたい欲望を抱いている。バレると糾弾されることを承知しているが故に、ひた隠しにし、表面上は普通の生活を送っている。男たちは、これは「嗜好」であり、おっぱい星人だとかアナルファックが好きだとかいうのと同列に考えている。

 したがって、男たちはおっぱいオバケやアナルを好む女と同様に、自分の嗜好を満足させてくれる子どもがいると本気で考えている。ただし、バレないようにしなければならない。

 同様に、彼らは自分を「世間から偏見を受けている者」とみなし、「自分の嗜好を表現する権利」を主張している。さらに、子どもとの性愛が悪いという社会の偏見を除くべきだとも主張している。それが、デンマークの児童性愛協会という団体。

 1999年、この児童愛好家団体は、結社の自由を盾に公然と活動をしており、児童性愛者(ペドファイル)を「変質者」とレッテルを貼る社会に抗議し、カウンセリング等による「治療」は無意味だと主張する。それは「嗜好」なのだから。

 本書を書いたのは、デンマークのTVジャーナリスト。実際にペドフィリアの取材の過程で得た体験が小説仕立てになっている。

 著者自らが児童性愛者になりすまし、その会合に潜入取材をはじめる。ジャーナリストである身分を隠しながら、「児童性愛を隠す一般人」を装う必要がある。二重の意味でバレないように細心の注意を払う。その甲斐もありグループにとけ込み、ペドフィリアたちと親しく交際するようになる。

 そこで明らかにされる実態は、極めて普通で異常。
児童性愛者
 普通な点。彼らはペドフィリアという一点を除き、とても普通。老いも若きも、金持ちも貧乏も、高い教育を受けた人も無学な者もいる。そこには、殺人鬼もいなければ虐待する親もいない。

 異常な点。彼らの主張はどうしても首肯できない。延々と聞かされる彼らの言い分(?)を要約すると、

「なぜ児童性愛だけが排斥されるのか?」

に尽きる。10才の男の子とヤリたいだって?変態だ!と指差し、異常だ病気だと寄ってたかって「治癒」しようとする。なぜだ? ゲイとどう違うのか? ノンケでなければ「病気」なのか? 一部の国ではゲイは市民権を得ているではないか? ペドだって同じだ。われわれが匿名なのは世間が許さないからだ…云々。

 著者は嫌悪しながらも同化しなければならない。バレないためにも。読み手はさらに嫌悪感を募らせるはず。著者の嫌悪のみならず、潜入現場のペドがグループ向けに発言する論理に付き合わされるから。

 さらに、言っていることはロジカルに正しいため、よけい腹立たしくなる。読み手の倫理基盤が揺らぐことはないだろうが、ペドフィリアとの決定的な溝が"ない"ことがイヤというほど見せ付けられる。彼らを「異常」とレッテルを貼り、排除しようとすることが本質的におかしいことがよく分かる(←だからといってペドフィリアを認めるわけではない)。

 まだある。東南アジア「児童」売春ツアーがあることは知ってはいたが、現実を見せ付けられる。これはひどい。ペドフィリアは嘯く「いわゆる協力関係というやつ。私のおかげで彼らは学校にいけるわけであり、彼らのおかげで私は癒される」。ペド対象にならないほど「成長」した子どもは、今度はポン引きとして次の犠牲者を探すよう仕向けられる。

 彼の言っていることは事実だ。ペドフィリアの構造化、南北問題、非対称性…何とでも呼ぶがいい。否応なしの事実をつきつけられる。で、彼らは自分の論理を事実で補強するワケだ。

「物語」ならよかったのに

 これらを否定することは簡単だ、目をふさいで耳を閉じればいい。あるいは、最初から読まなければいいのだ。メガストアは成人ファンタジーとして笑って読めるかもしれないが、これはネタではない。文字通り、冗談じゃない。

 しかしわたしは読んでしまった。もっと酷いのは、ラストで思い知らされたことだ。目を背け、耳をふさいでいたかった事実を注入された後に、結局、出発点に放り出されたのだ。何一つ変わっちゃいない。こんなに惨い性暴力禍を知った後、どうすることもできないことを思い知らされる。

 こんな事実なら、知らなければよかった…痛いぐらいに後悔している。

小児性愛犯罪者について

 本書の後に、これを読むとクるかも。毎日新聞2006年2月28日夕刊より。


 米国の小児性愛について語り合うネット掲示板に14歳の少年が心の叫びを書き込んだ。「幼児に性的興味があることに気付いた。僕を助けて。犯罪者になりたくない」。誰かが返答した。「自殺すればいい」




 かつての米国社会では子供の性的被害を「汚れた秘密」として表ざたにしなかった。それが犯罪を助長していた。ある40歳代の男性は12歳のとき、近所の幼女に痴漢行為をした。双方の親にばれたが、女児の親は警察に告訴しなかった。「捕まらないんだ」と思った男性は性犯罪常習者となった。




 約10年前に悲惨な幼女殺害事件が問題となったこともあって、今では米国社会は小児性愛犯罪の防止に取り組んでいる。カリフォルニア州の小児性愛犯罪者専門の医療刑務所では550人が投薬やカウンセリングの治療を受け、1人の治療に年間12万ドル(約1400万円)もかけている。




 だが、まだ完治するケースは少なく、納税者からは「税金の無駄遣い」という批判が出ている。現代医学も性犯罪を克服するまでには至っていない。


劇薬小説ベスト5

  1.児童性愛者(ヤコブ・ビリング)
  2.隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
  3.獣舎のスキャット(皆川博子)
  4.暗い森の少女(ジョン・ソール)
  5.ぼくはお城の王様だ(スーザン・ヒル)

 そしてわたしはついに気づく、このベスト5は、虐待の物語であることに。まともな神経の持ち主には、読まないよう注意喚起しておく。もう普通の小説じゃもの足りない人へ。

 読むときは、覚悟して。

最悪の読後感を味わわせてくれる小説

現在のワースト3は以下のとおり。

料理の科学1ぼくはお城の王様だ砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

 ・隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
 ・ぼくはお城の王様だ(スーザン・ヒル)[参考]
 ・砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)

 「最悪の読後感」とは文字通り、サイアクの気分にさせてくれるという意味。読了後、目の前が真っ暗になって、読んだことを後悔してしまいたくなるような、そんな小説。

 小説自体がひどい出来でウンザリさせられた、というのはこれにあたらない。なぜなら、くだらないと見やいなや即破棄するから。また、描写がアレなやつを求めているわけでもない。「読むスプラッター」として一世風靡したクライブ・バーカー「血の本」シリーズは楽しく読んだ。精神的に逝っちゃってる「ドグラ・マグラ」はおっかなびっくり読んだが、読後感は「面白い私小説!」だった。

 人より耐性はあると自負しているわたしが跪いたのは上の3冊。挙げてみて気付いたが、いずれもテーマは虐待。この話にダメージを受けるのは、親をやるようになったからだろう。ただし、これが小説ではなくノンフィクションになると話は別。以前、女子高生コンクリート詰殺人事件に関連した書籍を漁ったことがある[参考]が、気が滅入る一方で、どこか(親として)エリを正すような気持ちにさせられた。

 ワースト3のサイアクっぷりは以下のとおり(【注意!】激しくネタバレだけなでなく、ショッキングなことも書いてあるので、承知したうえで反転表示してねッ)

 「隣の家の少女」は、虐待されるガールフレンドを助けられなかった男の子の話。両親を交通事故で亡くした姉妹を引き取った女が折檻する。そのエスカレートっぷりはわたしの限界を超えている。女は姉妹を地下室に監禁し、強がる姉を剥く。そして、自分の息子に「おまえ童貞だろ、ファックしてやりな」とけしかける。さらには××××ワードを糸で腹に縫い付ける場面はじゅうぶん嘔吐に値する。

 救われないのは、主人公が少年(子どもでないが、無力)というところ。姉のほうに淡い恋心を抱き、なんとかしようと足掻くのだが、しょせん子ども。己の無力さを思い知る。ラスト1ページで意趣返しはかなうのだが、そんなことをしても何も救われない。

 「ぼくはお城の王様だ」は、「強い立場」の子どもが「弱い立場」の子どもをイジメる話。読みどころは、誰もおかしくないこと。イジメられている子の母や、イジメっ子の父が偽善的に描かれていればまだ救いはある。しかし、誰かを悪者のように描いていない。ただ、ほんの少しだけ子どもから目を離していただけ(だと思いたい)。イジメっ子自身も悪者のように描いていない。イジメ慣れしていない子がイジメに走ると、陰惨なやつになる典型。

 誰も悪くないなどとは言わないが、誰かのせいにして読者に納得させること許さない。最終的に自殺にまで追い込まれる理由は、憎しみだ。イジメっ子が憎い、分かってくれない母も憎い、だが最もやりきれないのは、どこにも持って行き場のない憎悪を抱いてしまった自分自身。そのあまりの禍々しさにおののくシーンがある。誰にも打ち明けることもできず、独りで立ち向かうこともできず、ただ泣くしかない。普通の小説なら、誰かが流れを変えるきっかけをくれるのだが、ない。知らずに期待して読むと酷い目に遭う。

 「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」は、友達がバラバラにされて積まれているのを、女の子が見つけるまでの話。ラストでどうなるかは最初のページに書いてある。理不尽なセカイに無力なワタシ。オトナになるためには、子どもを生きのびなければならない。

 着地点が分かっていて、そこへの過程を綿密にたどるかと思いきや、そうではない。なぜそんなことになってしまったのかは説明されていない。「百合小説の傑作」という誰かの誉め言葉と表紙の萌え絵に吸い寄せられたのが運の尽き。予備知識ゼロで読んだ人は酷いショックを受けるかもしれない(例えば「君が望む永遠」を予備知識ゼロでプレイするとか)。


 ああ、そういえばわたしもそうだった無力で壊れやすい子どもだった。しかし、残虐なイジメに出くわすこともなく、己の憎悪に打ちひしがれることもなく、狂った親に殺されることもなかった。

 もちろん事実の方が「奇なり」なのだから、小説から得られる「サイアク感」なんてたかが知れているのかもしれない。新聞とテレビだけで気が滅入ることばかり(編集でエログロ風味は消されてるにもかかわらず!)。

 それでも巷に溢れる「感動的な」「泣ける」「爽やかな」物語なんていらん。感動を期待して読むのは精神的マスターベーション。読んだことを後悔するような劇薬小説を求めて、訊ねてみよう。

「最悪の読後感を味わわせてくれる小説を教えてください」

『殺戮の野獣館』は読むハードコアスプラッタ

野獣館 そういうの苦手な人は読まないように。おゲレツ満載の小説だし、この記事もお下品なので。

 いんやぁ楽しませていただきました。はてなでご紹介いただいたdaddyscarさんに大感謝。この上もなく低俗で下品で「オエっとなる感じ」がこれでもかとばかり続くが、けしてお腹一杯にならないという不思議。性技だって48パターン全部試そうとしたら飽きがこないのと一緒。

 まずハードコア。強姦、獣姦、近親相姦。死姦、幼姦、阿鼻叫喚。嫐(女男女)も嬲(男女男)もある。まんぐり、八艘渡、緊縄、ロリペドなんでもござれ。ハードSM、食糞や飲尿まであれば百花繚乱だが、さすがにそこまではいかんかった。

 スプラッタも負けてない。一撃で顔の半分がエグりとられたり、食い散らかされ脊髄と下半身しか残っていなかったり、血まみれの親の前で娘(10歳ぐらい?)を○○したり、交合中に首チョンパだったり。ナイフ、銃、斧、チョーキング…と殺人手段もなんでもござれ(爆殺と薬殺がなかった)。

 じゃぁただのエログロバイオレンスかというとそうでもない。めちゃめちゃなストーリーだがこれがオモシロー。目を閉じアクセル踏みっぱなしの一本道だとアタリをつけていると、ラストでとんでもないオチが待っている。殺戮の「野獣館」のamazon紹介文はこんなカンジ。
 怪物が棲むと噂され、凄惨な殺人があとを絶たない「野獣館」。だが、すご腕の男ジャッジメント・ラッカーが、ついに野獣退治に立ちあがった!一方、鬼畜のような夫の追撃をかわし、娘を連れて逃走の旅に出た美貌の女性ダナ。このヒーローとヒロインの運命の出会いが、いままたあらたな殺戮の嵐を呼びおこす!

 ホラー界の最終兵器リチャード・レイモンが、この1作で斯界を激震させた、幻の傑作。衝撃の結末へ向け、強烈なエロスとバイオレンスが暴走する。


 キャラは全員どこかネジが外れている。鬼畜ダンナや野獣だけが狂っているのではない。妻はハンターに出会ってすぐに「体の奥深い中心が濡れてくる感じ」がして、12時間後に股を開く。鬼畜ダンナは往く路すがら屍累々を築くくせに、死体を見ると気分が悪くなってゲロを吐く。

 そうそう、登場人物がこれだけ沢山のゲロを吐く小説は珍しいかも。全員胃門が壊れてて、何かあるとすぐゲロを吐くか血まみれになるか肉塊と化す。

 ストーリーの骨格はS.キング「ローズ・マダー」やスティーヴン・ハンター「ダーティホワイトボーイズ」あたりを思い出していただければと…てか両者は本作を下地に書いたんちゃう? といいたくなるほど、「似てる」。マトモな人間は全員殺されていくお 話だと思って読んだほうが良い。

 んでラスト。衝撃というか笑撃。笑ったあたしゃ、狂っているのかも。そもそもダンナから逃げ出さなければこんなに沢山の人が死んだり「死ぬことよりも酷い結末」を迎えたりしなくてすんだんじゃぁないか? と考えた時点で笑いが止まらない。

 しかし、劇薬小説としてはまだまだ…と思っていたら初出1980年だよママン!「そういうの苦手」な人にとっては間違いなく劇薬となるかも。


劇薬マンガレビュー

 はてなでの質問「トラウマンガを教えてください」[参照]をした1週間前までは、「はてな村」の連中はヌルいと思ってたわたしが間違っていた。甘ちゃんなのはこのわたしだッ!この場を借りてお詫び&感謝&喝采を挙げる。…というのも、わたし自身が封印していたトラウマンガの記憶を呼び起こしてしまったから。キツい悔恨とともに記憶の海溝へ沈めた凶作品を思い出してしまい、質問するんじゃなかった…と、いま、二重に後悔している

 そんな、心を陵辱されるマンガがある。こんなの喜んで読んでいる奴の気が知れぬと思う一方で、そのパワーはとてつもない。わたしをつかまえて離さない強い魅力(というか念)が込められている。

 くり返すが、ふつーの人は目を背けるマンガがある。オトナが読んでもトラウマになる可能性が充分にある。そういう作品は分かるように明記しておくので、興味本位で手を出さないように警告する。また、★は劇薬度を表し、5段階評価。劇薬度とオモシロ度は比例しないので注意

トトの世界■トトの世界(★)

 いきなり例外、これは良い。さそうあきら氏といえばまず『神童』なんだろうが、これは激しくオモシロかった。トラウマなところはアソコとアソコなんだろうが、紹介された場が場なので、予想はついてた(それでもウッとなった)。予備知識なし&リアルタイムで読んでたらショックを受けていたかも。

 回収されない伏線や、"遺棄"されるキャラクターは内心もったいなく思うのだが、「お話」そのものの魅力に強く惹きつけられる。夢中になって読んでいると、人を人たらしめている本質は何か? について鋭い問いを突きつけられている。

 グロ絵は確かにあるけれど、びっくり箱のようなもの。むしろ、怒涛の後半、トトの秘密が明かされていく過程が恐ろしい。序盤で投げつけられた「言葉の世界で地獄を見る」ことの本当の意味が分かるとき、読み手はトトと一緒になっておののくに違いない。面白いマンガはないか? という質問に自信を持ってオススメできる秀作ナリ。

エルフェンリート■エルフェンリート(★★)

 ここからグロ度は上がるが、ウォーミングアップのつもりでこれを紹介する。萌え+グロ+バイオレンスの三拍子そろってて、アニメにもなってるそうな。絵的に萌え志向なので、とっつきやすいと思ってると、いきなりガツンとやられるので注意。残虐シーンを精密に描き尽くす作者ではない。飛び散る血潮や引き出される臓物のグロさはたかが知れている。ただし、その意外性にビックリするだろう。え、こいつを殺るの? というカンジで重要キャラが次ページでプチっと裂かれているのは慣れるのにてこずる。

 絵的にアレなことと、エログロバイオレンス展開なため、メガストアあたりで連載されてたなら首肯できる。しかし、ヤンジャンとは…読者も気の毒なことだっただろう。あ、でも孔雀王もハッピーピープルもYJだったから耐性はあるのか(古っ)。序盤のあたりでペギミンH を思い出した(これも古いねぇ…)

ラヴレターフロム彼方(★★★★)

 地雷。どっかで読んでて、あまりのイヤさ加減に読んだ事実すらDELETEしようにも消せないので、何か別の記憶を無理矢理オーバーライトしたはず←そのタガが外れてしまった。読まなきゃよかったと、今激しく後悔している正真正銘のヘンタイマンガ。

 小学校の教師が女生徒を陵辱するとこまでは普通のエロマンガだが、その出し方が極めて異常。全身の穴という穴をタコ糸のようなもので縫いとめてしまう。ただし、下の穴と口腔のみ残し、『おまえはその二つの穴だけで世界とつながるんだ、その穴だけでわたしを感じるんだ』などとおっしゃるセンセは、わたしの想像の彼方へ逝っている。トドメは彼女の指を切除して○○に差し込んで、授業をするセンセ、もうヤメてと本気で思ったね。映画でたとえるならば、『八仙飯店之人肉饅頭』と『ネクロマンティック』を足したぐらいの危険度。

 あなたがどんなにドスケベでエロでグロでマニアックな想像をしたとしても、そいつを軽々と凌駕する深刻さを持った作品ナリ。けっしてオススメはできないが、死体の肢体をもてあそぶ性癖を持つ人は、どのような思いでいるのだろうかといった思考実験ができる。

真・現代猟奇伝■真・現代猟奇伝(★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★)

 「コンクリート」について、ネットや書籍でいくつか読んできたので、話は知っていた―― が、あらためてマンガで読むと酸っぱい思いがこみ上げてくる。とても読めないが、読んだ。はっきりいって、面白くない、エゲツないだけ。それでも魅入られたかのように、読んだ。

 マンガには描かれていなかったが、書籍によると、彼女の存在を知っていたのは、「コンクリート」に関与した数人だけではない。彼女が「使える」ことを、少なくとも十数人の子どもたちは知っていた。その子たちは実際にその部屋に入り、彼女を見た、というところまでは記録されているが、その後何をしたかは、知りたくない。書きたくない。

 「クソガキどもを糾弾するホームページ」のログは、まだ残っているようだ。恥ずかしげもなく「ネットサーフィン」が使われていた時代、このサイトを全読した。読みながら目の前が真っ暗になった。これは、はてなでも質問されていたようだ[はてな]

 どす黒い感情を心ゆくまで味わうことができる。ふつうの人が興味本位で手を出すと嘔吐する。文字通り、読み手に大ダメージを与える劇薬だと思ってもらいたい。最も鬱になれたのは、本書のほとんどの話をどこかで読んだ記憶がある、ということ。つまり忘れよう、忘れたいと願って、記憶から消していたこと──本書により蘇るまでは。読むんじゃなった…

こわす読書「ソドムの百二十日」【閲覧注意】

ソドムの百二十日 この世が始まって以来、最も淫らで穢らわしい物語。

 乱読と、うそぶくわりに同ジャンル。気づいたら、似たよな本を読んでいる、狭く小さい殻の中。カニは甲羅に似せて穴を掘る。取捨選択でなく、自分の周囲に壁を築く読書。趣味なんだから引きこもるのは構わないが、その井戸で世界の中心を叫ぶ愚かしさ。狭窄に気づかない書評からドヤ顔が滲む―――これ全て、わたしのこと。

 なので、自分を壊す本を選ぶ。殻を砕き、やわらかいエゴを引っ張り出し、押し広げる、自己を拡張する読書。フランツ・カフカは言う、「頭ガツンと殴られるような本じゃなきゃ、読む価値がない」。意図的に手にする劇薬本が、わたしの心を抉りだす。

 「読まなきゃよかった」「読んだという記憶を消し去りたい」───そんな本を劇薬本と呼ぶ(劇薬小説、トラウマンガも然り)。期待外れの壁投げ本(くだらなくて壁に投げるような本)ではない、読んだら気分が悪くなるやつ。ベストは、「読書は毒書」と、「トラウマンガ」にまとめた。

 なかでもキツいのは、次の3つ。誘拐した少女の全身の穴という穴を縫い合わせる───ただし口とヴァギナを除いて。『おまえはその二つの穴だけで世界とつながるんだ、その穴だけでわたしを感じるんだ』(ラヴレターフロム彼方)。子宮を裂いて胎児を取り出し、代わりにぬいぐるみを押しこむ陵辱破壊(真・現代猟奇伝)、家族丸ごと監禁し、家族同士で殺し合いをさせ、家族中で死体処理させるノンフィクション(消された一家)を読むと、最高に胸クソ悪い満腹感を味わえる。自分の中に、こうまでドス黒い感情が溜まっていたのかと思うと、心が折れるというより溶ける。正直、この3つを超えるやつはもうないと信じてた。

 しかし、間違ってた、上には上がいる。しかも、かなり上で、マルキ・ド・サド「ソドムの百二十日」だ。上3つを含み、もっと狂ってる。一言なら、「読む拷問」。男色、獣姦、近親相姦。老人・屍体に、スカトロジー。読み手にとてつもない精神的ダメージを与え、まともに向かったら、立てなくなる強烈な兇刃に膾にされる。イメージを浮かべながら読むと、想像力が絶叫する読書になる。三柴ゆよしさん、オススメありがとうございます。間違いなく劇薬No.1ですな。

 鼻水吸引や髪コキ、愛液フォンデュ、ミルク浣腸は序の口で、真っ赤に焼けた鉄串を尿道に差したり、水銀浣腸で腸内をごろごろする感触を楽しむ。抜歯や折骨を趣味とする男の話や、女の耳や唇を切断したり、手足の爪をムリヤリ剥がす話が喜喜として語られ、実践される。眼球を抉ったり、乳首や睾丸を切断したり、嗜虐趣味極めすぎ。

 そして、妙に「尻」にこだわる。裸体描写の大部分は、尻に集中する。少女の腰から尻にかけての絶妙なカーブと淡い肌合いを、愛でるが如く描く。お尻スキーのわたしとしては仲間意識がソソられるが、わたしの妄想力のはるか上方を飛翔する。サドは、生娘のお尻を緻密に描写するいっぽう、老人の垂れ下がった尻についた黄褐色と臭気も、これまた熱狂的に綿密に記す。

 なぜ「尻」なのかという動機が、わたしと根本で異なる。わたしにとって、お尻とは人体うちで最も美しい丸みであり、秘所を護り隠す桃なのだ。二次元であれ三次元であれ、女のお尻を眺めるとき、わたしはシアワセでいっぱいになる。女のお尻は、太陽のように美しく、満月のように完璧だ。

 だが、彼らにとってお尻は、冒涜のための道具であり嗜虐の的にすぎない。女のお尻に口をつけ、出てくるそばから飲み込むプレイを延々読んでると、お尻そのものより、尻が為すもの(尻で為すもの)が好きなんだね、と思えてくる。真っ白な美しさが語られた後、真っ赤になるまで鞭打たれたり、出てきた糞で塗りたくられたりする、お尻は聖なる穢なる場所なのだ。とある悪漢がこう言い放つが、サドの本音だろう。
「おっぱいなんか取ってしまえ、女という奴は図々しくおっぱいを見せたがる癖があるんだな。俺はおまえのおっぱいもおまんこも欲しくないんだ。必要なのはお前のお尻だけなんだ」
 そう、彼らはこだわるくせに、お尻が好きではない。なぜなら女性の尻に大砲をぶち込んだり、尻穴に火薬を詰めて火をつけて木っ端みじんにしたり、膣と肛門の隔壁を断ち切って手を差し込んで腸をかき回して玉門からうんこを出させたり。こわす対象としてのお尻なのだ。

 そういう意味では、彼らにとって他者とは、壊す対象になる。犯しながらノコギリでゆっくり首を切断したり、恋人同士を拉致して、彼女の乳房や尻を切除して調理して彼氏に食べさせたり。母に息子を殺させたり、塔の上から子どもを突き落とす『遊び』や、むりやり膣に押し込んだハツカネズミや蛇が娘の内臓を食い破る様を眺めるなど、よくぞ想像力が保つなぁと感心する(同時に、ちゃんと読んでる自分がたまらなく嫌らしい)。

 圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、そして傷害致死―――ここにはあらゆる「死」の形が描かれている。「死」は一つなのに、至る道はさまざまやね。

 本書は、性倒錯現象の集大成ともいえる。自己愛、同性愛、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、服装倒錯、性転換といった現象を、露出症、窃視症、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった性手段で果たそうとする。では、完全なる狂気から成っているかと思うと、そうではない。極端は異常性欲を、極めて冷静沈着に書いているから。

 たとえば、キツいなかでもよりシビアな場面に差し掛かると、「心と頭の整理をしておいて頂きたい」と警告する。また、伏線を示して読者に期待を持たせたり、えげつない記述はあとでまとめるなど、思わせぶりな「読ませる」テクも優れている。

 そう、性倒錯や異常性欲といっても、そのうち飽きる。ダレさせない"工夫"も随所に光っている。最も上手いのが、「語り部」を設けたこと。この物語は、4人の語り女によるメタ構成となっている。まず、百戦錬磨の売春婦に、異常な"客"について語ってもらう。次に、それを聞いて興奮した異常性欲者たちが"現実"で再現する―――このくり返しにより、猟奇が重なり、異常が累乗される。病的な身の上話に反応して、もっと屈折した行為を求めるようになる。欲望にはキリがないことは分かっているが、どこまでキリがないか確認したくなる(必ず想像を上回るから)。

 笑っちまうほど歪んだ欲望もある。牝馬の革で、馬の形のカゴを作らせ、そこに犬を抱いて入る。次に、カゴから尻穴だけ出して、牝馬の愛液を塗ってもらう。用意しておいた牡馬がカゴに馬乗りになり、裏門を犯られつつ、男は抱いた犬を犯すという、珍妙な"プレイ"に、息も絶え絶えになった。裸にした娘の初物を奪う代わりに、鳥肉(ホール)を太ももに挟ませ、鳥肉を犯すといった父の"プレイ"は、いじましさと可笑しさに悶えまくった。

 このように、読者を「もてなす」技術や、読む欲望を飽きさせないような仕掛けは、狂気のなせる業ではない。狂っているというより、別の次元を感じる。わたしの世界にとっては「欲望」と名付けられる衝動に、極めて忠実なのだ。

 渋澤龍彦「サド公爵の一生」によると、彼はバスティーユの監獄の中でこれを書いた。ろうそくの薄暗い光を頼りに、幅12センチの紙片を丹念に貼り合わせて作った、長さ12メートルに及ぶ巻紙の両面に、不自由な眼で、蟻のような細かな文字をびっしり書き込んだのだ。メモやノートの類はなかったという。そのため、登場人物の齟齬や時系列的な矛盾がところどころある。だが、たった37日間で一気呵成したこの情熱は、狂気と正気を使い分けたもの。下半身を熱くさせる反面、手と頭はクールでないと書けぬ。

 想像力が凶器となる読書。目を疑え、そして自分を壊せ。

嫁子に読んでほしくない作品ベスト5

 かなり極悪なリストになってしまった。後半は、嫁子に読んでほしくないというよりも、人として読むべきでない。もちろん、わたしは大好きなので、明らかにおかしい。興味本位は止めておけ、性差ツッコミは無駄無駄無駄ァ、むしろこいつを超える作品があれば激しく募集する。

 では始める。

 バタイユもサドも潤一郎も、淫蕩モノとして好きだー、けど嫁さんに言わせると「無駄にエロい」らしい。激・し・く・同・意。むしろ乱歩やヤプーが何でないんだろうね。まぁ、エロ特性は人それぞれということで。

 また、半強制的にハルヒや名雪(京アニ)を観せてるので、嫁さんはわたしの趣味を知っている。かつ、エロ倉庫は既に発見されているので、今さら隠すものもない。

 それでも、これだけは嫁に知られたくないというか、読まれたくないという作品がある。その存在すら知らずに一生を終えてほしいと願う、そんな作品がある。劣情鬼畜系とでもいうべきか。「極エロ」というべきか。

 もちろん、事実は小説よりもナントカで、新聞を読むほうが暗澹とさせられる。が、読んだことを激しく後悔するような「作品」もある。おかげで、記憶ごと消したくなるようなおぞましい事件を、「作品」という形でくり返し思い出し、味わうことができる(吐き気をね)。

 これまで「劇薬小説」シリーズで紹介してきたが、ここでは、小説に限定せず、ノンフィクション、マンガも含めた劣情鬼畜作品を並べてみる。ああ、メガストアとか桃姫とかは入れていないので安心して、もっと非道いから。だから以下の作品は覚悟完了の上でどうぞ。

第5位 目玉の話(バタイユ)

目玉の話

 「眼球譚」やね。新訳「目玉の話」では、告白体のしゃべりがくだけた感じになり、さらに読みやすくなっている。

 特に目を引いたのが「玉」の語感。原文にある、"oeuf","oeil","couille"(ウフ、ウエ、クエ)の音感を、「目玉」、「玉子」、「金玉」と「玉」でつなげて訳しているのは素晴らしい。また、性器一帯を「尻」で統一しているのも良い感じ。

 エロスの極限に神性をもってきているのが鼻に付くが、冒涜行為は「神」相手でないとできないから仕方ないか。より強いショックを受けるには、キリスト教に入信するか、ヘーゲルを読んでおくといいらしい。

 わたしの脳に、「セックスと排尿」をバインドした張本人がバタイユ。愛し合う男女はセックスの際、尿をかけあうという誤った刷りこみのおかげで、変態あつかいされますた。余談だが、かわいい女の子が顔まっかにしておもらしするエロマンガの最高峰はぢたま某「聖なる行水」。「目玉」に辟易したらどうぞ。

 バタイユを含む、「人生を狂わせる毒書案内」は→「読んではいけない」をどうぞ。

第4位 城の中のイギリス人(マンディアルグ)

Sirononakano

 性の饗宴ではなく、性の狂宴。女性器をバラや口唇にたとえる人がいるが、これを読むと、できたての裂傷に見えるようになる(かも)。

 圧巻なのはタコ地獄。タコが蠢く水槽へ少女(13歳処女)を投げ込む→タコとスミまみれの彼女(顔にもタコべったり)を犯す→鮮血とスミと白い肌のコントラストがまぶしい。その後、ブルドック2匹に獣姦させる。終わったらカニの餌。

 あと、マジ吐けるのはラストの「実験」。鋭利なカミソリで皮脂まで切られ、果物のようにクルリと皮を剥かれた顔を眺めながらヤるところ。嘔吐と勃起の両方が味わえるからふしぎー、体の上下でつながっているのかね。

 要するに、普通の人には弱いけど、食糞・飲尿、なんでもこい、なんでもこーい、残虐・陵辱、ぴきぴきドカーン!たちまちお城が大噴火するお話。

 まともな人は、読んではいけない(過去のエントリ→【18禁】スゴ本+劇薬小説「城の中のイギリス人」)

第3位 隣の家の少女(ケッチャム)

隣の家の少女

 嘔吐と勃起が止められないといえばこれ。読んだ時期が悪かった。うっかり「少女」をジョディ・フォスターにしちゃったからサァたまらない。「君がいた夏」どころか、「13金」(最初のやつ)の マ マ の 顔 が脳に染み込んでくる。

 もうね、この本を読んだという記憶ごと抹消したいぐらい後悔している。あと「ケッチャム」という名も、知らなかったことに。あまりにも面白すぎる・闇すぎるので。ケッチャムを通じて、他人の闇をのぞき見るのではない。わたしの闇がよく見えるんだ。

 この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。「読者」は、決して、安全ではない。読む(見る)ことにより取り返しのつかない自分になってしまう。

 「隣の家」を頂点とした劇薬小説のリスト→劇薬小説【まとめ】。

第2位 真・現代猟奇伝(氏賀Y太)

真・現代猟奇伝

 読・む・な。まさしく毒書となることを約束する。マンガだから「どくいりマンガ」。まず、読んだことがある、というだけで性格を疑う。ましてや「大好きだー」なんていうやつぁ、イカれているよ、わたしは好きだけど。

 氏賀Y太のおかげで、内臓ファックやら顔面崩壊といったワザを知ることになった。腹を裂いてヤるなんて、おかしいよ。吊り・焼鏝・股裂・食糞・腹腔ファック・串刺・正中切開・脳姦・解体刑…あらゆるキチガイが詰まっている逸品。

 女子高生コンクリート詰め殺人事件は、ページをめくるのが恐くてたまらなくなった。描写や展開が恐いのではなく、ページをめくろうとする自分の壊れっぷりにおののいたのだ。「おかしい」自分を充分に意識して、読んだ。食人社会ネタはブラックユーモアだと誤解して、ゲタゲタ笑った自分が恐ろしい。壊れやすいのは人体ではない、わたしだ。

 「現代猟奇」を頂点とした劇薬マンガのリスト→劇薬マンガレビュー。

――と、ここまで走ってきたけど大丈夫? え? バタイユが可愛く見える?

 うん、「バタイユ大好きー」な女の子なら、むしろお近づきになりたいものよ(エロスについて、女子とマジメに語ることは心躍るイベント)。だけど、ケッチャム大好きっ子や猟奇っ子は、人としてどうかしているぞ。もちろん、わたしは好きなので、激しくどうかしているよ!類友~なら、ひょっとすると嫁さんも素質があるのかもしれんが、世の中には知らないほうがいいことがあるということで。

 じゃぁラスト、いってみよう。

第1位 死体のある光景(キャサリン・デューン)

Deathscenes

 カリフォルニアの殺人捜査刑事が個人鑑賞用に収集した膨大な「死体のある風景」のスクラップ。モノクロとはいえ、モロ出し死体画像をこれでもかというくらい堪能できる。

 ポートレイトというものは、「見られる」ことを意識している。たとえ無断で隠し撮ったものであれ、人の顔が外側についている限り、他者の視線が載っている(だから無自覚な喜怒哀楽の瞬間を撮った写真が"良い"とされるんだ)。

 しかし、ここに写る「人」もしくは「人塊」は、そうした意識がない。だから、人の形をしていながら、モノのように眺めることができる。いちばん切実な「自分の死」を想像しても抽象的にしか考えられないが、ここでの死はとても具体的。たとえば、

圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、傷害致死

 メッタ刺しにされた売春婦のスカートがまくりあげられ、下着が奪われ、局部がむきだしになっている。もう死んだ体なのに、モノクロ写真のせいで「魅力的」に見えないはずなのに、すげぇ興奮する。

 なぜか?

 それは、もう「見られる」ことを意識しなくなったから。わたしの視線を好きなだけ塗りつけることができるから。

 ほら、あれだ。グラビアのヌード写真に興奮する男の子といっしょ。裸の女の子は、カメラを向いていても「あなた」を見ているわけではない(←そして「あなた」はそれを知っている!)。絶対安全な位置から、すきなだけ「見る」ことができる悦び。しかもこれは死体だから、「見られる」ことなんて知ったこっちゃない。こっちを向いていてもカメラすら見ていないんだから。こうして、死体の女を二重に支配することができる。

 ここまでくると、2chの「死姦して人生狂ったけど質問ある?」[参照]元医者の告白がすごくよく理解できる。たとえばこうだ、

  > なんだろうな
  > 完全に起きる事の無い相手を犯す事に興奮するのかな?
  > それとも無抵抗の相手だからこそ興奮するのかな?
  > 完璧に相手の意思を無視してするセックスは最高だぞ

 わたしは、死姦のシュミは(たぶん)ないけれど、分かる。この人は、

  > 死体愛好家だった
  > 医者の見習いだった
  > ちょっと犯してみた
  > 監視カメラついてた
  > 警察来た
  > 人生オワタwwwwww

 そして「死姦したこと後悔したことある?」という質問に、

  > これははっきり言うけど無いよ。

  > 死体を犯すと自分が一段階成長して人としての高みに上ってる感覚があるんだよ
  > その犯した人を完全に乗り越えたって感じ?
  > とりあえず生きてる人間と同意のセックスをしてもあの感覚は絶対に無い

 あー、分かる、分かってしまう。彼と同じ「気持ち」になれる。ものすごく逆説的なんだけど、正気のリミッターが解除されるまで死体を眺めているうちに、おれは生きているぞー、としみじみ思えてくる。

 吐き気と征服欲の両方を味わえ。おお、嘔吐と勃起、死とセックス。タブーはいつも、自分の内側にある、そいつを打ち破れ。エロスの根源的なところを体感せよ、そいつはタブーの向こう側、「自分の死」と同じ場所にある。タブーって奴ぁ、「自分の死」から目をそらすためにも役立っているのだから。

 わたしの死亡率は100%であることを、あらためて思い知らされるんだ。

背徳の愉しみと目の悦びの5冊『澁澤龍彦 : ホラー・ドラコニア少女小説』

 5冊イッキ読み、一気レビュー。

■1 「ジェローム神父」 マルキ・ド・サド×澁澤龍彦×会田誠

ジェローム神父 まず「ジェローム神父」。澁澤龍彦=マルキ・ド・サドと、幻想画家・会田誠の恐ろしいコラボレーション。ふつうの人は避けたい挿絵とストーリー。

 たとえば表紙。ポニーテールの少女(全裸)が、アッケラカンとした笑顔で見上げている。ただし両手足は切断されており、ぐるぐる包帯からにじむ血肉が生々しい。あるいは挿絵。少女の腹を指で押すと、割れ目からイクラがぽろぽろと出てくる「とれたてイクラ丼」は目を見張る。

 もちろんサド・テイストも凄まじい。冒頭、恋人どうしの若い男女を人気のないところへ連れ出し、まず男を射殺。そして女を姦するのだが、ただじゃすまないのがサド節。小枝やトゲのある蔓で女の柔らかい場所を刺したり痛めつける。男の死体を切り裂いて、そこから心臓を抜き取り、娘の顔を汚す。あまつさえ心臓の幾片かを無理やり娘の口のなかに押し込んで、噛んでみろと命令する…

おれは手に短刀を握っていたが、いよいよ完頂の瞬間までは彼女を殺すまい、と思っていた。おれの完頂の神聖な溢出と、おれの相手の女の断末魔の吐息とが混ざり合うことを思うと、ぞくぞくするような愉悦を覚えずにはいられなかった。

彼女がこの世のもっとも残酷な瞬間を経験するであろうとき、おれはこの世のもっとも甘美な瞬間を味わうのだ、と考えた。


 で、胸といわず下腹部といわずメッタ刺しにするわけだ、自分がイク瞬間に。悶死する肉体の収縮が、えもいわれぬ恍惚感をひきおこすそうな。

 可憐な少女をたぶらかし、文字通り「獲物」として扱うジェローム神父。中2の脳内自己中ではなく、徹底的に考え抜き、むごたらしい実体を伴う。彼が、「おれが地球上の全人類を、もっぱらおれの快楽に奉仕すべき存在としてしか認めていないことは申すまでもあるまい」と言い切るとき、戦慄するよりも感心するばかり。

■2 「菊燈台」 澁澤龍彦×山口晃

菊燈台 次は「菊燈台」。記憶を無くし、奴隷となった美少年と、それを飼う少女との倒錯した性の話… なんだが、「つかみ」である右腕を失った使用人の話のほうが興味深い。主人の娘のあそこが見たくて、厠にもぐって暖かいオシッコを浴びながら凝視する毎日。しかし、どうしても触りたくて手を上げてしまう。娘は驚いて腕をひっぱると、不思議なことに根元からすっぽりと抜ける。

 このエッチで怖くてこっけいなシーンは、山口晃の浮世絵のようなタッチで再現されている。京に都があった頃の話なのに、烏帽子や被衣が描かれているのに、背景が原子力発電所だったり、抜けた腕の跡がどう見てもターミネーターだったりする奇妙な挿絵がオモシロイ。

 目のつけどころは表紙。主人公(?)の美少年のはずなのだが、なぜかりっぱなおっぱいがついている。両性具有でもないのに、飼い主の娘? … と考えると、挿絵の書き手がこの物語をどう読んだかがうかがい知れて、非常にオモシロイ(ヒント↓)。

からみ合った四本の脚が見えた。いや、四本かと思えば二本、そしてまた急に四本にもどったりして、男女の姿態は絶えまなく変化しているようであった


 あとがきの「少女コレクション序説」がやヴぁい。後で否定しているものの、主張していることはまさに「少女の剥製をつくろう」に他ならないから。ファウルズよりも、乱歩か、フィギュアが近しいね。

■3 「淫蕩学校」 マルキ・ド・サド×澁澤龍彦×町田久美

淫蕩学校 「ソドム百二十日」からの抄録。地獄の百二十日が始まる直前までの悪意に満ちた準備の様子が描かれている。生贄となる美少年美少女を拉致→念入りに選別し、調教師となる醜悪ババアを集める。その選抜プロセスが工業製品の検査を見ているようで可笑しい。そう、贄たちは人ではなく文字通りモノとして扱われているからね。

 でもって一行はスイス山奥の深い森にたたずむ城館に立てこもる。城は堅牢な外壁で囲まれ、深い堀で隔絶されている。唯一の通路である橋は切って落とされ、城内の内側から全ての城門が塗りつぶされる。この城塞はサド自身の頭蓋のメタファーだと述べられているが、言いえて妙。

 そして宴が始まる―― ってところで終わり。ええーっとガッカリするかも。続きは「ソドム百二十日」なんだけど、全読していない。いや、かなりエゲツない話が徹底的に語られるのはいいんだが、飽きてしまったのがホントのところ。どんな非道な悪事でも「飽きる」ことができるわたしが怖い。も一度手にしてみるか…

 挿絵は町田久美。気のふれた人形を眺めているような気分になる。意図的(?)なのか男根や陰核を上下逆さまにつけている人形(ひとがた)が怖い、ツッコミを待ちかまえているようで不気味。

■4 「狐媚記」 澁澤龍彦×鴻池朋子

狐媚記 お次は「狐媚記」。武家の妻が月満ちて狐の子を産みおとすところからお話は始まる。妻は身に覚えがないのだが、剛直な夫が責める責める。実はこれ、狐玉(要するに賢者の石)を手に入れた夫の姦計なのだが… ありがちな人狐の物語に生々しいキャラが載っていて新鮮。

 ただ、鴻池朋子の挿絵が場違いのような。[Knifer life]はどう見てもオオカミです、ありがとうございました。これはこれでスゴいのだけど、流転するナイフと狼と少女(脚部)のイメージと、人狐の交わりのお話がどうしても噛みあわない。膨大な流水のようなナイフ群に魅入られた後、本文にハッと引き戻されるように読んだ。

■5 「獏園」 澁澤龍彦×山口晃

獏園 ダ・カーポでNo.1徹夜本と賞された「高丘親王航海記」より一編。夢を食べる獣バクの話。史実と幻想を織り交ぜるサブリミナルな書き口と、精緻でエロティックな挿絵が似合っている。

 2巻「菊燈台」と同様、中世と現代の風俗が「違和感なく」交じり合っており、さしずめ絵画の換骨奪胎といったところか。高丘親王が大学教授のように扮しており、天竺への旅がゼミ旅行のように描かれている。

 見どころはラスト、皆が見守る中、王の娘がバクの一物をさすりあげ、口に含んだりして精を放たせるところ。物語では高丘親王のシンクロニシティに焦点があたっているが、挿絵はバクと少女の性戯を様々なタッチで何枚も描かれている(最後のエロマンガ風味のが好みっス)。

 元となっている「高丘親王航海記」は、天竺を目指しながら過去へ過去へと回顧するループバックと、1000年以上も前の話なのに、いきなり現代の視点で語られるアナクロニズムが読みどころ。

■結論 : エロスって幻想的で具体的だな。イチバンはやっぱり「ジェローム神父」、まっとうな狂気に出会える。

「ブラッドハーレーの馬車」に絶句する

ブラッドハーレーの馬車 「赤毛のアン」を陵辱する、心ゆさぶるストーリー。強く強く、めまいがするほど。

 はじまりは、孤児院。身寄りのない少女たちの憧れは、ブラッドハーレー歌劇団。1年に1度、容姿に恵まれたものが選ばれ、資産家・ブラッドハーレー家の養女として迎えられる。貴族としての生活や、歌劇団で華々しく活躍することを夢見る少女たち。

 本気で読む気なら、予備知識はこのくらいで。ただし、「劇薬注意」とだけ添えておく。帯の説明は地雷なので、外しておこう(わたしもそうした)。沙村広明版「キャンディ・キャンディ」のつもりで扉を開いた。おかげで、こうかはばつぐんだ。

 第一章を読む。

 みるみる顔色が変わっていくのが、自分でも分かる。心配した嫁さんがわたしの名前を呼んでいる。「ちょっとうるさい!黙ってて!」ふだんなら絶対に言わないような言葉を、強い口調で伝える。嫁さんも気色ばんでるみたいだが、かまやしない。

 ぜんぶ読む。自分を取り戻す。めまいはおさまったようだ。

 嫁さんに平謝りにあやまる。「こんなスゴいマンガがあってね」とか「でもこれは、オススメできないな、特に女性には」と、ストーリーをかいつまんで説明する。嫁さんは読まないことを約束してくれた…

 ところで人が壊れる話を書くとき、中心に据えられるのは、少女である場合が多い。破壊衝動を満たすためには、彼女たちの処女性や神性が格好のターゲットになるのだろう。少女たちの夢を被服とともに剥き去り、声すらあげさせず、あらゆる言葉と思考を奪い取る。乳首を噛み切るとか、目玉を抉り取るといった行為に象徴されるように、純粋な玩具としての一個の物体に近づける。その暴力性が存分に発揮できるのは、少女が性的に無知であり無垢であるから。いわゆる「壊しがいのある」というやつ。「ヒャッホーイ!」と叫びだしそうな喝采を飲み込むのに忙しく自分の狂いっぷりに愕然とする。

 さらに、破壊される少女にとどまらないのがスゴいところ。実際、少女を壊す話なら、劇薬マンガ・ベストなり劇薬小説・ベストにいいのを揃えてある。「真・現代猟奇伝」や「隣の家の少女」、あるいは「逆光の部屋」あたりが毒素強めだ。ところが本作だと、そのさらに向こう、少女の「絶望」をすばらしく美しく描いているわけ。ほとんど子供のような肉体が汚辱にまみれ、いままさに死のうとしているのに、その口で「希望」を語るわけ。「あと何日耐えたら…」と未来のことを話すんだ。どう見ても助からない状態なのに。自分すらあわれむことを止めてしまった少女を、かわいそうだと思わないではいられない。まさに死なんとするときでさえ、自分が犯したささやかな罪の告白と謝罪を受入れてくれと願う。絶望のさなかでも赦しを求める少女に、泣いた。

 長期・無期服役者へ「餌」を与える、ブラッドハーレーの「1/14計画案」については、以下を思い出す。

   アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、
   国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案

 貧乏人の子沢山なアイルランドの窮状を見かね、1729年にジョナサン・スウィフトが提案した強烈な諷刺だ。貧民には経済的な恩恵をもたらし、なおかつ人口抑制にも役立つ解決策なんだけど… 要するに「貧民の赤子を富豪の宴席へ供せよ」と謳っている。人間の赤ん坊は非常に美味なので、貴族は争って買い求めるだろうし、貧民にとっての口減らしにはうってつけというわけ。

 狂気の倫理と経済の論理が見事に混ざった傑作だが、「赤ちゃんは?」と問うてはいけない。本書なら「少女は?」だろうね。喰われる(犯される)ほうとしては災難以外の何ものでもないが、運命のレールを敷くほうはちゃんと理にかなっている。おそろしいほどに。おぞましいほどに。

 破壊される少女を淡々と眺めてもいい、彼女らの絶望と希望に涙してもいい、何の罪もない彼女を破滅させる「ルール」に暗澹とさせられてもいい。カラマーゾフのイワンが吐いた「神がいるのであれば、どうして虐待に苦しむ子供たちを神は救わないのか?」を繰り返し思い出す。少女たちの凄惨な運命に戦慄する一方、期限付き地獄の中で希望を見出そうとする彼女らが不憫で不憫でたまらない。苦しい、読むのがこんなに辛いなんて…

 で、翌日。嫁さんの顔色が悪い、しかも非常に。なぜ…?
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Dain5

Author:Dain5
スゴ本より成人向のキッツいのを。
いいのがあったらご教授を。

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