ついに「隣の家の少女」を超える劇薬を読む
怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ…負の感情を与える小説を探してきた。特に読後感がサイアクの気分を味わえるような、そういう小説を探してきた。読むだけで嫌悪感、嘔吐感、恐怖感を掻き立てる、イヤ~な気分にさせる小説。「感動した!」「お涙ちょうだい」なんて糞喰らえ。読んだ記憶ごと抹消したくなる"劇薬"をよこせ。
…という企画「劇薬小説を探せ!」[参照]で、皆さまのオススメを片端から読んできた。一口に"劇薬"といってもカゼ薬からシアン化ナトリウムまでいろいろ。
「隣の家の少女」という劇薬
毒素の高いものランキングすると、
1.隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
2.獣舎のスキャット(皆川博子)
3.暗い森の少女(ジョン・ソール)
4.ぼくはお城の王様だ(スーザン・ヒル)
5.砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)
6.蝿の王(ウィリアム・ゴールディング)
2位以下の入れ替わりはあったが、不動の1位「隣の家の少女」を超える奴はなかろうとタカくくっていた。
「隣の家の少女」は本当に酷い。読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験レベルまで沁み渡った。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。
陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。
見ることにより取り返しのつかない自分になってしまう。文字通り「もうあの日に戻れない」。
しかし既に読んで(見て)しまった。それどころか、出会いそのものを忌むべき記憶として留めておかなければならない。わたしたちは、読むことでしか物語を追えない。作者はそれを承知の上で、読むことを強要し、読む行為により取り返しのつかない体験を味わわせる←ここが毒であり、「最悪の読後感」である所以。
スプラッタ小説
さて。
そんなに酷い思いをしたならば、こいつを上回る毒はありえない。残虐シーンが好きなら、そいつ売りの「読むスプラッタ」なら「血の本」「殺人鬼」などスゴいものが沢山ある。例えば…
- 看護婦の肛門に消火器のノズルを突っ込んでブシューッと破裂させたり、力まかせに木刀を口に押し込み、そのまま肛門までブチブチと貫通させる(殺人鬼II)
- 口→喉→胃→腸の奥に「手」を突っ込んで、内臓を握りだす…そして、あたかも靴下を裏返しに脱がすように一気に引きずり出す(血の本:屍衣の告白)
(どちらも「生きたまま」がポイント)だいたいエログロ好きなら映画の方が格段に良いって。「ネクロマンティック」か「八仙飯店之人肉饅頭」あたりを観てな。どちらも極上エログロだから。ただし、よ い 子 は ゼ ッ タ イ に 観 て は い け ま せ ん !
どんなに酷くても、終わったら忘れることができる。初恋の少女の肉体を使った地獄絵図を「見た」という経験も、どろどろに腐敗した恋人にディルドをつけて死姦するシーンも、終わったら、おしまい。時間はかかるが、痛みは薄れ、記憶は風化する。荒唐無稽であればあるほど、「思い出」化することは容易だ。
「児童性愛者」という劇薬
ところが、「隣の家の少女」を上回る劇薬に中った。「児童性愛者」だ。「隣の家…」は読んでる途中で猛毒に気づくが、本書は読みきった後にジワジワとクる。ニュースで"そういう事件"に出くわすと、たとえようもない絶望感に天を仰ぎたくなる。時間が経てば経つほど毒に蝕まれる。読むことが悪夢の始まりであり、呪いとしかいいようがない。
エログロは無し。残虐シーンも無し。「読むスプラッタ」は楽しく読めたのに、本書は気分が悪くなった。特に、ある写真の真相が暴かれる場面は、予想どおりの展開であるにもかかわらず、読みながら嘔吐…で、ラストは絶望感でいっぱいに。
「小さな子どもと仲良くなること」を生涯の目標にしている男たちがいる。柔らかくハリがある小さな体を自由にしたい欲望を抱いている。バレると糾弾されることを承知しているが故に、ひた隠しにし、表面上は普通の生活を送っている。男たちは、これは「嗜好」であり、おっぱい星人だとかアナルファックが好きだとかいうのと同列に考えている。
したがって、男たちはおっぱいオバケやアナルを好む女と同様に、自分の嗜好を満足させてくれる子どもがいると本気で考えている。ただし、バレないようにしなければならない。
同様に、彼らは自分を「世間から偏見を受けている者」とみなし、「自分の嗜好を表現する権利」を主張している。さらに、子どもとの性愛が悪いという社会の偏見を除くべきだとも主張している。それが、デンマークの児童性愛協会という団体。
1999年、この児童愛好家団体は、結社の自由を盾に公然と活動をしており、児童性愛者(ペドファイル)を「変質者」とレッテルを貼る社会に抗議し、カウンセリング等による「治療」は無意味だと主張する。それは「嗜好」なのだから。
本書を書いたのは、デンマークのTVジャーナリスト。実際にペドフィリアの取材の過程で得た体験が小説仕立てになっている。
著者自らが児童性愛者になりすまし、その会合に潜入取材をはじめる。ジャーナリストである身分を隠しながら、「児童性愛を隠す一般人」を装う必要がある。二重の意味でバレないように細心の注意を払う。その甲斐もありグループにとけ込み、ペドフィリアたちと親しく交際するようになる。
そこで明らかにされる実態は、極めて普通で異常。
普通な点。彼らはペドフィリアという一点を除き、とても普通。老いも若きも、金持ちも貧乏も、高い教育を受けた人も無学な者もいる。そこには、殺人鬼もいなければ虐待する親もいない。
異常な点。彼らの主張はどうしても首肯できない。延々と聞かされる彼らの言い分(?)を要約すると、
「なぜ児童性愛だけが排斥されるのか?」
に尽きる。10才の男の子とヤリたいだって?変態だ!と指差し、異常だ病気だと寄ってたかって「治癒」しようとする。なぜだ? ゲイとどう違うのか? ノンケでなければ「病気」なのか? 一部の国ではゲイは市民権を得ているではないか? ペドだって同じだ。われわれが匿名なのは世間が許さないからだ…云々。
著者は嫌悪しながらも同化しなければならない。バレないためにも。読み手はさらに嫌悪感を募らせるはず。著者の嫌悪のみならず、潜入現場のペドがグループ向けに発言する論理に付き合わされるから。
さらに、言っていることはロジカルに正しいため、よけい腹立たしくなる。読み手の倫理基盤が揺らぐことはないだろうが、ペドフィリアとの決定的な溝が"ない"ことがイヤというほど見せ付けられる。彼らを「異常」とレッテルを貼り、排除しようとすることが本質的におかしいことがよく分かる(←だからといってペドフィリアを認めるわけではない)。
まだある。東南アジア「児童」売春ツアーがあることは知ってはいたが、現実を見せ付けられる。これはひどい。ペドフィリアは嘯く「いわゆる協力関係というやつ。私のおかげで彼らは学校にいけるわけであり、彼らのおかげで私は癒される」。ペド対象にならないほど「成長」した子どもは、今度はポン引きとして次の犠牲者を探すよう仕向けられる。
彼の言っていることは事実だ。ペドフィリアの構造化、南北問題、非対称性…何とでも呼ぶがいい。否応なしの事実をつきつけられる。で、彼らは自分の論理を事実で補強するワケだ。
「物語」ならよかったのに
これらを否定することは簡単だ、目をふさいで耳を閉じればいい。あるいは、最初から読まなければいいのだ。メガストアは成人ファンタジーとして笑って読めるかもしれないが、これはネタではない。文字通り、冗談じゃない。
しかしわたしは読んでしまった。もっと酷いのは、ラストで思い知らされたことだ。目を背け、耳をふさいでいたかった事実を注入された後に、結局、出発点に放り出されたのだ。何一つ変わっちゃいない。こんなに惨い性暴力禍を知った後、どうすることもできないことを思い知らされる。
こんな事実なら、知らなければよかった…痛いぐらいに後悔している。
小児性愛犯罪者について
本書の後に、これを読むとクるかも。毎日新聞2006年2月28日夕刊より。
米国の小児性愛について語り合うネット掲示板に14歳の少年が心の叫びを書き込んだ。「幼児に性的興味があることに気付いた。僕を助けて。犯罪者になりたくない」。誰かが返答した。「自殺すればいい」
かつての米国社会では子供の性的被害を「汚れた秘密」として表ざたにしなかった。それが犯罪を助長していた。ある40歳代の男性は12歳のとき、近所の幼女に痴漢行為をした。双方の親にばれたが、女児の親は警察に告訴しなかった。「捕まらないんだ」と思った男性は性犯罪常習者となった。
約10年前に悲惨な幼女殺害事件が問題となったこともあって、今では米国社会は小児性愛犯罪の防止に取り組んでいる。カリフォルニア州の小児性愛犯罪者専門の医療刑務所では550人が投薬やカウンセリングの治療を受け、1人の治療に年間12万ドル(約1400万円)もかけている。
だが、まだ完治するケースは少なく、納税者からは「税金の無駄遣い」という批判が出ている。現代医学も性犯罪を克服するまでには至っていない。
劇薬小説ベスト5
1.児童性愛者(ヤコブ・ビリング)
2.隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
3.獣舎のスキャット(皆川博子)
4.暗い森の少女(ジョン・ソール)
5.ぼくはお城の王様だ(スーザン・ヒル)
そしてわたしはついに気づく、このベスト5は、虐待の物語であることに。まともな神経の持ち主には、読まないよう注意喚起しておく。もう普通の小説じゃもの足りない人へ。
読むときは、覚悟して。